ジブリのスタート

スタジオジブリは、「風の谷のナウシカ」の内容的興行的成功を機に、「天空の城ラピュタ」製作時の1985年に、「風の谷のナウシカ」を製作した出版社・徳間書店が中心となり設立したアニメーション・スタジオです。以後、宮崎駿・高畑勲両監督の劇場用アニメーション映画を中心に製作してきました。ちなみに「ジブリ」とはサハラ砂漠に吹く熱風のことです。第2次大戦中、イタリアの軍用偵察機が名前に使用していましたが、飛行機マニアの宮崎がこのことを知っており、スタジオ名としたわけです。「日本のアニメーション界に旋風を巻き起こそう」という意図があったと記憶しています。

ジブリのように原則的に劇場用の長編アニメーション、しかもオリジナル作品以外は製作しないスタジオというのは、日本のアニメ界では、というより世界的にも極めて特異な存在だと思います。なぜなら、興行の保証が得られない劇場用作品は、リスクが大きすぎるだけに、継続して収入が得られるテレビ・アニメーション・シリーズを活動の中心に置くのが常識だからです。日本でも、多くのアニメーション・スタジオがテレビ・アニメに基盤を置きつつ、たまに劇場用作品を作るというのが一般的です。そして、日本で作られる劇場用の映画も、じつは、評判のよいテレビ・アニメを映画化するというケースがほとんどです。

もっとも、ジブリも最初から現在の体制で運営されていたわけではありませんでした。

高畑と宮崎、現在ジブリの中心となっているふたりが出会ったのはそもそも今から30年以上も前のことです。当時ふたりが所属していた東映動画(現・東映アニメーション)は、まだ劇場用長編アニメーションだけを作っていました。何作か長編作品の製作に参加した彼らですが、時代の流れとともに活躍の舞台をテレビへと移さざるを得ませんでした。74年に放送されたテレビ・シリーズ「アルプスの少女ハイジ」(制作・ズイヨー)は、高畑が監督し、宮崎が絵を担当した作品ですが、これは、テレビ・アニメのひとつの到達点ともいうべき作品です。

しかし、そういった作品群を産み出す中で、いつしか彼らは、自分達が目指しているリアルでハイクオリティなアニメーション作り----人間の心理描写に深く入り込み、豊かな表現力で人生の喜びや悲しみをありのままに描き出す----を実現していくのには、やはりテレビという、予算的にもスケジュール的にも制約の大きい媒体では不可能であるという結論に到達していくのです。それが「風の谷のナウシカ」以後のジブリ設立への原動力になったわけです。予算とスケジュールをかけて一作一作に常に全精力を注ぎ込み、すみずみまで目の行き届いた妥協のない内容を目指していく。しかも、それを宮崎・高畑というふたりの監督を擁し、監督中心主義で作る。ジブリの20年は、この姿勢を保持しながら、それでいて商業的な成功とスタジオの経営を両立させていくという困難な課題を、両監督の卓越した能力とスタッフの努力によって、かろうじてこなしてきた歴史であるといえるかもしれません。

正直いうと、ジブリがここまで続くとは誰も考えていませんでした。一本成功したら次をやる。失敗したらそれで終わり。設立当初は、こういう考え方だったからです。ですからリスク軽減のために社員の雇用はせず、作品ごとに70人ほどのスタッフを集め、完成すると解散するというスタイルをとりました。場所は東京・吉祥寺の貸しビルのワンフロア。この方針を打ち出したのは、実は高畑勲でした。彼は「風の谷のナウシカ」をプロデュースしましたが、そのとき見せた実務能力が、ジブリのスタート時にも大いに発揮されたわけです。そして、「天空の城ラピュタ」も高畑勲プロデュース・宮崎駿監督で制作されました。

「風の谷のナウシカ」は1984年の公開で91万5千人、「天空の城ラピュタ」は1986年で77万5千人の観客をそれぞれ日本国内で動員し、高い評価を得ました。

日本映画界が注目したジブリ

さて、次にスタジオジブリが制作したのが「となりのトトロ」と「火垂るの墓」でした。この2本は実は同時期に作られ、1988年の4月に2本立てで公開されました。「となりのトトロ」は宮崎駿、「火垂るの墓」の監督は高畑勲です。宮崎作品と高畑作品の同時公開というのは、後にも先にもこのとき一回限り、考えてみれば随分と豪華な組み合わせでした。しかし、制作現場は、その分大変な状態に陥りました。なにしろ、長編2本を同時に作らなくてはならないのです。しかも、作品の質は向上させたい。ほとんど無理な要求でしたが、いま、やっておかないとこの両作品を作るチャンスは二度と巡ってこない。そういう判断に立ち、暴挙以外の何物でもないこのプロジェクトを推し進めたのです。

ここで忘れてならないのが、設立当初からジブリの社長だった故・徳間康快です。彼はそもそも出版社・徳間書店の社長でしたが、本業だけにとどまらず幅広い事業展開をして、徳間グループを築き上げた人物でした。

徳間社長がスタジオに顔を出すことは滅多にありませんでした。基本的には現場に任せていたからです。しかし、ここぞというときには、顔を出しました。漫画「風の谷のナウシカ」の映画化を決断したのも、ジブリの設立を決断したのも彼です。「となりのトトロ」「火垂るの墓」の2本立てですが、じつは配給が決定するまでには相当な困難がありました。その前の2本に比べると、地味な印象があったからです。このときも徳間社長は自ら配給会社に乗り込んでこの作品を売り込み、話をまとめたのです。これらの徳間社長の働きのひとつでも欠けていたら、現在のジブリはなかったでしょう。

「となりのトトロ」と「火垂るの墓」は、公開時期が日本で一番お客さんを集めるサマー・シーズンではなかったこともあり、封切の興行成績はいまひとつでした。しかし、作品内容に対しては、各方面からきわめて高い評価を受けました。「となりのトトロ」は、実写を含めたこの年の日本国内の映画賞を総ナメにしました。「火垂るの墓」も文芸映画として大絶賛されました。この2本によって、ジブリは日本映画界にその名を広く知られるようになりました。

また、「となりのトトロ」は思わぬ副産物も生みました。ぬいぐるみが大ヒットしたのです。いま「思わぬ」といいましたが、実際、このぬいぐるみは映画の公開から2年も経ってから商品化されたものでした。映画製作者サイドがあらかじめ興行との相乗効果をねらって製作したものではなく、あるぬいぐるみメーカーの人が「これこそぬいぐるみにすべきキャラクターだ」と惚れ込み、ジブリへ熱心に働きかけた結果実現したものなのです。

ともあれ、トトロ商品のお陰で、ジブリは映画の製作費の部分的な補填が可能になり、会社のマークも、これ以降トトロを使うことになりました。マーチャンダイジングについては、現在ジブリの社内の商品企画部で、展開をしています。ただ、あくまで映画が先で、商品はその後から生まれるものだという方針に変わりはありません。商品化のために作品内容を決める、あるいは変更する、ということはこれまで一切行なっていないことは自慢できると思います。

ジブリ第2期スタート

ジブリ作品で興行的に最初に大成功したのが宮崎監督の1989年度作品「魔女の宅急便」でした。264万人が劇場に足を運んでくれて、この年、邦画No.1ヒットとなりました。配給収入も観客動員もまさにそれまでとはケタ違いです。しかし、大ヒットの陰で、関係者のあいだでは深刻な議論が持ち上がっていました。この先、ジブリをどういう会社にしてゆくのか、という大問題です。具体的には、スタッフの待遇と新人の採用・育成です。

日本のアニメーション界では、「描いた絵1枚、塗った絵1枚につきいくら」と賃金を設定するいわゆる「出来高制」が通例で、当時のジブリもそれでやっていました。その結果、「魔女の宅急便」の頃のスタッフの収入は、普通の勤め人の約半分という苛酷な状態だったのです。

宮崎監督はふたつの提案をしました。

  1. スタッフの社員化及び固定給制度の導入。賃金倍増を目指す。
  2. 新人定期採用とその育成。

ジブリの状況とは裏腹に、当時、日本のアニメーション界は悪化する一方でした。そんな中で良質な作品を作るためには、拠点の維持、組織の確立、スタッフの社員化、研修制度の整備等が不可欠である、と判断したわけです。方針の明確な転換でした。いわば、ジブリの第2期のスタートでした。ここでも、徳間社長の支持がありました。

ところで、プロデューサーの鈴木がジブリの専従になったのは、じつはこの時点のことです。それまでは、徳間書店が発行するアニメーション専門誌「アニメージュ」の編集長をしていました。「アニメージュ」には、1978年の創刊に携わり、1983年に徳間書店が「風の谷のナウシカ」の製作を開始して以来、雑誌の編集とかけもちで、ジブリの映画製作にも関わってきたのです。

こうして、ジブリは高畑監督の「おもひでぽろぽろ」に取りかかりました。そして、この作品制作中の89年11月からは、先程述べたように、スタッフを社員化・常勤化する一方、動画研修生の制度を発足させ、毎年定期的な新人採用を開始しました。

1991年に公開された「おもひでぽろぽろ」も興行関係者の不安をよそに、大ヒットしました。「魔女の宅急便」同様、この年の邦画No.1になったのです。とりわけ嬉しかったのが、宮崎の掲げた2大目標が達成できたことです。賃金倍増と新人採用。しかし、ある問題も明確になりました。それは製作費の高騰です。これは作る前からわかっていました。なぜなら、アニメーションの製作費はその約80%が人件費であり、賃金を倍増すれば、それは自動的に製作費も倍近くなることを意味していたからです。

「ジブリ第2期」の新方針は、必然的に関係者の目を宣伝・興行に向けさせました。製作費の大幅アップは避けがたい。ならばそれに見合うだけの観客動員増を、もっと意識的・計画的に手を打って達成するしかない。それまでも考えていなかったわけではないのですが、この「おもひでぽろぽろ」が、真剣に宣伝に取り組むようになったきっかけの作品になりました。

当時ジブリの責任者だった原徹氏が「ジブリは3Hだ」といい出したのもこの時です。HIGH COST, HIGH RISK, HIGH RETURN。大きくお金をかけて質の高い作品を作り、大きな不安を抱えながらも、大きく儲けよう。そんな意味だったと思います。あれから随分たちましたが、この言葉は、いまだに通用します。もっともHIGH RETURNについては、仮にその通りになったとしてもすぐに次回作に投入してしまうので、少しも手元に残りません。さて、社員を抱えるということは、給料を毎月支払うということです。ジブリは常に作品を作り続けるしかない状況に自らを追い込んだのです。作り続ける宿命を負ったジブリは「おもひでぽろぽろ」とオーバーラップして「紅の豚」の制作に突入しました。オーバーラップはジブリにとっては初めての経験でした。なにしろ「おもひでぽろぽろ」の追い込みの時期です。ネコの手も借りたいのに、どうやって「紅の豚」に人を割いたらいいのか勝手がわかりません。結局、「紅の豚」の制作に突入したのは宮崎ひとりでした。宮崎は文句をいいました。「制作も何もかも、ぜんぶひとりでやれというのか」。愚痴は聞きましたが、ひとりでやってもらうしかありませんでした。

ジブリ新スタジオの建設

そんなストレスを解消しようとしたのか、宮崎が唐突にいいだしました。「新スタジオを建てよう!」と。いちばん大変なときにもっと大変なことを持ち出して、抱えている問題の打開を図るというのが、いつもの宮崎のやり方です。しかし、このとき立てた理屈は人を感心させるものがありました。優秀な人材を確保しようというのに、仮の住まいでは説得力がない。容れ物があってはじめて人は集まるし、また人は育つというのです。スタジオはもうこれ以上は切り詰められないというほど、手狭になっていました。300平米に90人近くのタッフがひしめき合って仕事をしていたのです。しかし、新スタジオを建てるお金は当時のジブリにはありませんでした。

常識を楯に大反対したのが当時の社長だった原でした。内心無茶だと思いつつ「何とかなるだろう」と考えたのがぼくです。そして、またぞろ大賛成してくれたのが徳間社長でした。妙なはげましのことばも掛けてくれました。「鈴木くん、金は銀行にいくらでもある。人間、重いものを背負って生きてゆくもんだ。」こういう人生観もあるのかと不思議な感動にとらわれたのを覚えています。「考えがちがう」と言い残し、原がジブリを去りました。

この年の宮崎駿は八面六臂の大活躍、本当に天才でした。「紅の豚」を作りつつ、そのかたわら、自ら設計図をひき、イメージを建設会社と打ち合わせ、完成予想図を描き、素材の見本を取り寄せ、選択し、決定しました。1年後、「紅の豚」と新スタジオはほぼ同時に完成。「紅の豚」の公開直後、ジブリは東京都小金井市に建てた新スタジオに引っ越しました。

参考までに、現在のスタジオをご紹介すると、第1スタジオが敷地面積は約1100平方メートル、フロアー面積もほぼ同じ。鉄筋コンクリートの地上3階地下1階です。緑や木が多いことが特長で、屋上も宮崎監督の発案により、後から緑地化しました。

99年春には第1スタジオの向かいに第2スタジオを建設、2000年3月にはその隣に第3スタジオも完成しました。どちらも基本設計はやはり宮崎駿であり、あまり広くはありませんが木造なので、より暖かみのある職場になっています。中でも、第2スタジオには1階にコントロールルームとノンリニア編集室があり、地下は試写室、兼・録音スタジオが入っています。

ジブリの特徴

1993年、ジブリはコンピューター制御の大型撮影台を2台導入し、念願の撮影部を発足させました。こうして、作画から美術・仕上・撮影に至るまでの全部門を持つスタジオに成長したわけですが、これは、分業が極度に進行している日本のアニメーション業界とは完全に逆の方向です。これまた、同じ場所で緊密に連携しながら一貫して作業を進めることが作品の質の向上につながる、という理由からです。

この93年、初めてテレビ向けの作品も制作しました。「海がきこえる」です。監督は当時34歳の望月智充。高畑・宮崎以外の人間が初めて担当したわけです。制作スタッフも2〜30代の若手を中心に編成、「早く安くうまく」を合言葉に制作に入ったのです。この70分のテレビ・スペシャルは、一定の評価は得ましたが、結局予算とスケジュールを大きく超過してしまいました。テレビはジブリの今後の大きな課題です。

1994年の高畑監督作品「平成狸合戦ぽんぽこ」は、またもこの年の邦画No.1となりました。「おもひでぽろぽろ」以降に採用したジブリ育ちの若いアニメーターたちが作画の中心を担い、大いに力を発揮してくれた作品です。また、「平成狸合戦ぽんぽこ」で、ジブリは初めてCGを導入しました。このときは3カットだけでしたが、今から思えば、これが後のCG室設立につながる流れの始まりでした。

95年の夏に公開された「耳をすませば」では、宮崎がプロデューサー・脚本・絵コンテを担当し、これまで「火垂るの墓」「魔女の宅急便」「おもひでぽろぽろ」のジブリ作品で作画監督などを担当してきた近藤喜文が初監督に挑戦するという新しい布陣を敷きました。また「デジタル合成」を採用することで、制作現場へのデジタル技術導入を加速させるきっかけにもなりました。思春期の爽やかな出会いを描いた「耳をすませば」もその年の邦画No.1になりました。

その後、「もののけ姫」では初めてデジタルペイントを採用し、完成後には社内に本格的なCG部を設立。その後、CG部はデジタル作画部と名を変えて、「ゲド戦記」まで映画制作に大いに貢献しました。しかし、その後は、作画方針の変更もあって、CG部は縮小され映像部に吸収されて現在に至ります。

ちなみに現在スタジオジブリに社員として所属するのは、制作系のスタッフとして作画・デジタルペイント・美術・撮影・映像・音響制作・演出・制作部門があわせて約100人、事務系のスタッフとして業務・出版・商品・海外事業・イベント・管理部門・その他で50人の合計計150人です。こうやって比較するとおわかりのように、その3分の2が映像を作る作業に関わるスタッフです。ジブリ作品は他のスタジオに比べるとコスト高だという話を繰り返ししてきましたが、映画制作に必要なほとんどの作業を社員スタッフでまかなっていることが大きく影響しています。このことが、良質な作品を作り続ける上で大きく貢献している特長なのですが、見方を変えると弱点のひとつだといえるかもしれません。

ジブリの宣伝戦略

さて、ジブリ映画の宣伝に関する話です。スタジオジブリの特色は、「内容的な評価」と「興行的な成功」を両立させている点にあるといえます。日本の映画界は依然として順調ではありません。その中で、ここ最近のジブリ作品は、ほぼ、興行において成功し続けています。そのポイントは、大きくいって3つあります。

第1に、当然のことですが、作品の完成度の高さ。画面の緻密さには定評がありますが、内容面では、常に現代性を第一に考えたテーマ設定をしていることも大きな特徴です。「平成狸合戦ぽんぽこ」でいうなら、狸たちを描きながら、それが日本人と重なり、戦後50年を振り返るという映画になっています。「もののけ姫」のタタラ場のように、善悪で単純に割り切れない舞台設定は、現代そのものと言えるでしょう。そういうテーマを、高畑・宮崎という監督の指揮下、高度な技術による高品質な映像で作り出すのです。内容が薄ければ、たとえどんな大宣伝を行っても継続的な成功はありえません。

第2が、過去に積み上げてきた実績です。ジブリ作品といってもすべてが興行的に大成功してきたわけではありません。具体的には、先程述べましたように「魔女の宅急便」からです。しかし、この大成功には前作品「となりのトトロ」「火垂るの墓」の2作の存在が非常に大きいのです。この2作品は同時公開されましたが、公開時点ではそう大きな興行成績をあげたわけではありませんでした。しかし、内容的には非常に評価が高く、その後のビデオ販売やテレビ放送で、いわゆるアニメファンの枠を大きく越えた一般的な大きなファン層を開拓したのです。この下地があったからこそ、「魔女の宅急便」の成功が生み出されたのです。その後は、回を重ねる毎に、前作の内容的な成功が次の作品の興行的成功を支えるという、幸福な連鎖が生まれています。

第3が、確たる方針で展開される大規模な宣伝です。日本においては、すでに映画は娯楽の中心ではありません。平均すると日本人ひとりが年間1本しか映画を見ていない計算になります。単にいい映画だというだけでは、お客さんは見に来てくれません。それを突破するには、大宣伝によって映画をイベント化する必要があります。つまり、ジブリ作品はほとんどが夏に公開されていますが「この夏、絶対に見た方がいい話題の中心」という空気を、全国的に作り出すのです。

宣伝といっても、いわゆる映画宣伝だけではありません。現状では、限られた予算のなかから、宣伝費に大きなお金を投入することがムリなので、いろいろな形でお金のかからないタイアップや、パブリシティに力を入れています。

こういった宣伝の場合、スタジオジブリとして一番注意していることが、宣伝ターゲットです。アニメーションというと、日本でも子供のものという印象がつきまといます。しかし、日本の映画は若い女性層を獲得しない限り、大ヒットは望めませんし、同時に親子を大動員することも非常に重要です。したがって、ジブリ作品においては、子供から大人までの広い範囲をねらったフル・レンジの宣伝を展開するのです。その場合、特に、大人の鑑賞に耐えうる高度な作品であることを強くアピールすることが大事です。

そして、公開直前に行われる全国キャンペーン。監督やプロデューサー自らが、文字どおり全国の主要都市を宣伝してまわるのですが、毎日都市から都市へと移動しますし、スケジュールは分刻みなので本当に大変です。しかし、これによって各地域の地元メディアに取り上げてもらえる量がグンとアップするのです。情報がどんどんローカルに限定される傾向が生まれ、東京発の情報が地方に届きにくくなっている現在、地元メディアに対するアプローチはもっとも忘れてはならない宣伝といえます。

ともかく、ジブリは映画を作ったらそれでおしまいではなく、宣伝にも自ら深く関わって、何とかヒットするように毎回動いてきました。情報化社会、そして娯楽が多様化した現代においてはそうせざるを得ないのです。作品製作を続けようとする限り、このスタイルは続くでしょう。

「もののけ姫」で記録を作ったジブリ

95年、スタジオジブリは、長編第11作、宮崎監督5年ぶりの完全オリジナル作品となる「もののけ姫」の制作に入りました。実は「もののけ姫」は企画そのものが冒険でした。いまどき流行らない時代劇、製作費が従来の倍の20億円、そしてライバルは「ロストワールド・ジュラシックパーク」。普通に考えたら回収は不能です。しかし、時代劇は宮崎監督長年の念願でした。彼の年齢やスタッフ編成などを考えると、作るなら今しかない、という状況でした。「もののけ姫」の企画には関係各社の誰しもが不安を覚えましたが、最後にGOサインを出したのはやはり徳間社長でした。足かけ3年がかりで製作したこの作品は97年夏に公開されるや関係者の予想を遥かに超える大ヒットとなり、あの「E.T.」を抜いて、それまで日本で公開された邦画・洋画すべての映画の記録を塗り替えました。

「もののけ姫」は単なる映画の枠を超えて社会現象になり、多くのメディアで様々な人が、この作品について語り合いました。もちろん世間のいたるところでも話題になり、ジブリの名前を広く認知させることになりました。

そんな中、悲しい出来事もありました。98年1月、「耳をすませば」の近藤喜文監督が亡くなったのです。47歳でした。数多くの高畑・宮崎作品を支え続けた、間違いなく世界でも屈指の天才アニメーターでした。日を追うに従って、彼の不在が大きく感じられます。

次にジブリが取り組んだのは「ホーホケキョ となりの山田くん」でした。原作はいしいひさいちさんの4コママンガで、脚本・監督は高畑勲、公開は99年夏。「山田くん」は全編フルデジタルで制作された最初のジブリ作品です。ジブリとしてはデジタル化が絶対に良いと思っていたわけではありませんが、セルなど素材の供給に不安が出てきたため、「もののけ姫」制作終了後、仕上・撮影部門の全面的デジタル化に踏み切りました。作画や背景画は従来通り手描きですが、それ以降の工程がすべてコンピューターで行われるようになったのです。

残念ながら「山田くん」は大ヒットというわけにはいきませんでした。しかし作品自体は大変高い評価を得ることが出来ました。1作1作を確実にヒットさせなければならないジブリのあり方は変わっていません。が、常に挑戦し、冒険し続けてきたのもジブリです。超大ヒット作「もののけ姫」の後にこういう作品を作り世に送り出したのも、ある意味で大変ジブリらしいのではないでしょうか。

ジブリ作品の海外進出について

ジブリ作品の海外上映は、10年前までは香港・台湾などのアジア地域が主でした。海外の興行に興味がなかったので、こちらから積極的に売り込むことはしてこなかったのが主な理由です。しかし90年代中頃から様子が変わってきました。まず「となりのトトロ」がアメリカで劇場公開され、続いてフォックスビデオから発売された同作品のビデオソフトは、60万本の売上を記録しました。これは、日本映画のアメリカでの展開としては画期的なことでした。また「平成狸合戦ぽんぽこ」がアカデミー賞の外国語映画部門の日本選出代表に選ばれるという出来事もありました。

そして96年、ディズニーとの間で、新作「もののけ姫」とそれまでのジブリ作品を世界配給するという提携の話が持ち上がりました。我々はかねてから、きちんとしたお話ならば受けていきたいと考えていました。国籍・人種を問わず、沢山の人に見てもらい、喜んでもらえるのは作り手としては何よりも嬉しいことです。ディズニーなら、作品を大事にしてくれる。そんな考えのもと、我々はディズニーと提携することを決めました。

この提携により、まず「魔女の宅急便」がビデオで98年9月に北米で発売され、大変好評を博しました。そして英語吹替版の「もののけ姫」が全米で99年10月に劇場で封切られ、多くのメディアで絶賛されました。残念ながら興行成績は振るいませんでしたが、宮崎監督とジブリの名は、はっきりとアメリカでも認識されるようになりました。フランスでは2000年の1月より公開され好成績を収め、以後ヨーロッパの他の国や南米などでも順次上映されています。

ただ、ディズニーとの提携によって、今後ジブリは、あらかじめ世界市場を考慮に入れて、いわば多国籍企業的なマーケティング戦略で作品を作るのかといったら、それは違います。これまで通り、まず日本を対象に一所懸命作品を作り、海外はその後で考えるという方針が今後も続くでしょう。それは「もののけ姫」後の最初の作品に「山田くん」を作ったことにも如実に表れています。

「千と千尋の神隠し」の世界的な成功

2001年7月、日本中に旋風を巻き起こした「もののけ姫」に続く宮崎監督の次回作として「千と千尋の神隠し」が公開されました。この作品は事前の予想をはるかに超える大ヒットとなり、「もののけ姫」の記録をすべて塗り替え、動員2350万人、興行収入304億円の日本における興行の新記録を作ったのでした。海外からの評価も高く、第52回ベルリン国際映画祭では日本人としては39年ぶり、アニメーションとしては史上初の金熊賞を受賞、翌年の第75回アカデミー賞では長編アニメーション部門のオスカーを見事に受賞したのです。

また、翌年発売した同作品のビデオはDVDとVHS合わせて、550万本出荷という驚異的なヒット作となりました。10万本でヒット作といわれる市場で、この数字はいかに並外れたものかが理解してもらえるでしょうか。さらに半年後にテレビでOAされた際も、46.9%(ビデオリサーチ調べ)という驚異的な高視聴率を記録したのでした。これは1977年の調査以来、映画の視聴率では断トツの一位となります。

この作品のヒットにより、スタジオの世間からの捉え方に大きな変化が生じました。「世界を席巻する日本のコンテンツビジネスの旗手=スタジオジブリと宮崎監督」という扱われ方です。当時、日本経済がすっかり自信を失っていたこともあるのでしょうが、世間からは世の中唯一の明るい話題、日本の希望の星として捉えられ、連日、経済誌や新聞の産業面の記者からの取材申し込みが相次ぎ、自治体や日本国政府までもが、ジブリをコンテンツビジネスの成功例として扱い始めたことに、正直なところ戸惑いを感じざるを得ませんでした。

ただ確かに、このころ「チーム鈴木」という言葉が生まれたように、日本テレビやディズニー、三菱商事、電通、博報堂といった出資会社と、ローソン、読売新聞、第一興商といった協賛会社との連携が非常にうまく行って、興行に大きく寄与したことは事実です。そしてそれが、ビジネスモデルの成功例として捉えられても仕方ないことかもしれません。ただ、スタジオとしては、あくまでも、子供向けに高品質なアニメーション映画を提供し続けていくという志に一片の迷いもありませんが。

ところで、2004年3月公開の、プロダクションIG制作、押井守監督作品「イノセンス」に製作協力として参加し、主に宣伝の分野で協力しました。これは見方を変えると、これまでに確立した「チーム鈴木」という宣伝協力体制をフルに活用する新たな試みでした。結果として大ヒットには至らなかったものの、押井守監督作品としては前作の10倍の興行成績をあげ、また、女性客の集客に成功した点でも十分に評価できる結果といえるのではないでしょうか。新たな問題として、シネコンを中心とした興行網に対するアプローチをどうすべきかという問題が急浮上してきたのですが、それはまた別のお話です。

「三鷹の森ジブリ美術館」の誕生

「千と千尋の神隠し」と並行して、宮崎駿はもうひとつの作品を完成させました。「三鷹の森ジブリ美術館」。美術館といっても単に飾ってある絵を鑑賞するだけではなく、空間その物を楽しみ体験することで心が豊かになる、極めてユニークな建物です。設計はもちろん宮崎本人で、2001年10月に開館しました。「紅の豚」のときと同様、宮崎駿は「千尋」と「美術館」の2本の作品を同時に作り上げるという離れ業を演じたのです。

残念ながら、このふたつの作品両方にGOサインを出した徳間康快社長は、2000年9月、完成を見ずして帰らぬ人となりました。享年78歳。しかし、そのチャレンジ精神は、ジブリの在り方の基本として、これからも我々とともに生き続けるでしょう。

ジブリ美術館は、開館から7年目に入った今も、完全予約制という特殊な運営方法を維持しながら、年間70万人のお客様に来館していただき、順調な運営を続けています。常設展の他に、これまでに企画展として、「千と千尋の神隠し」展や「天空の城ラピュタと空想科学の機械達」展などのジブリ作品を取り上げた企画展示や、「ノルシュテイン展」「ピクサー展」「アードマン展」などの世界中の良質なアニメーション作家やスタジオを紹介しながら、アニメーション文化の発信基地としての成果を確実にあげています。その証拠といえるかもしれませんが、2005年3月、宮崎吾朗館長は「三鷹の森ジブリ美術館での「ピクサー展」など一連の企画」を評価されて芸術選奨文科大臣賞新人賞を受賞しました。

また忘れてならないのが、ジブリ美術館内の映像展示室「土星座」で上映されている短編アニメーションたちです。これまでにスタジオジブリが、「くじらとり」「コロの大さんぽ」「めいとこねこバス」「星をかった日」「水グモもんもん」「やどさがし」の6本のオリジナルアニメーションを制作し、現在も定期的に上映を続けています。美術館だけでしか観られないため、興行的な回収を考えないですむという利点を生かして、今後も意欲的な作品を定期的に提供していく予定です。

スタジオジブリのさまざまな挑戦

「千と千尋の神隠し」の翌年、初の高畑・宮崎監督以外の監督作品として、森田宏幸監督作品「猫の恩返し」と百瀬義行監督作品「ギブリーズepisode2」の二本立ての興行を行い、65億円の興収を上げ、2002年度の邦画興行ナンバーワンの成績を収めました。高畑・宮崎ではない若い世代が制作した作品を公開する試みは、大変な好成績を収めました。

また、2002年にはチェコの実写映画「ダークブルー」の配給宣伝に協力し、翌年にはフランスで大ヒットしたミッシェル・オスロ監督作品「キリクと魔女」の日本語吹替版を高畑監督が手がけ、ジブリとして配給宣伝に協力するなど、ジブリ作品に限らず、また実写、アニメーション作品に限らず、世界の良質な作品を紹介する試みも行なっています。

スタジオジブリとは別の活動するために「スタジオカジノ」というブランドを立ち上げ、これまでに庵野秀明監督の実写映画「式日」(2000年)の製作・配給を行なったり、本広克行監督作品「サトラレ」(2001年)に参加し海外配給を手がけたりしました。

その後2004年には、百瀬義行監督とcapsuleという音楽ユニットをプロデュースしている中田ヤスタカ氏とのコラボレーションで「ポータブル空港」(2004年)を「スタジオカジノ」ブランドで発表、その後も、「スペースステーションNo.9」「空飛ぶ都市計画」(2005年)というミュージッククリップを相次いで制作しました。この3部作はレトロフューチャーSFをテーマに、スタジオジブリが手がける作品として新たな方向性を提示することに成功したのではないでしょうか。

このほか、2001年に制作したアサヒ飲料のCMを皮切りに、ローソンのキャンペーンCM、りそな銀行、ハウス食品「おうちで食べよう」シリーズ、読売新聞など、コマーシャルフィルムの制作が本格化してきたことが、新しい動きとしてあげられると思います。これまでにも、日本テレビの開局40周年記念のコマーシャルフィルムを作成したことはありましたが、定期的にこれだけの作品を作り始めたのはつい最近のことです。これらの制作で得られる対価は、今やスタジオ運営のための重要な収入となっていることは、否定できないでしょう。ただ、むやみにCMを受注しているわけではないのはいうまでもなく、あくまでも本業に影響を与えない範囲で、十分な報酬があり、クオリティにおいても妥協せずにすむ場合にのみ限られるのですが。

フィルム制作とは別の事業にも本格的にも着手することになりました。イベントの企画・制作・運営です。これまでにも、各種のイベントは手がけてきましたが、映画公開時の宣伝の一環としての原画展やデパート展示がその中心でした。今回は事情が違っており、現代美術館館長に日本テレビの氏家会長が就任したことを皮切りに、「スタジオジブリ立体造型物展」「球体関節人形展」「漫画映画の全貌展」「大サーカス展」などを企画し参加してきたわけです。さらに、海外にも展示を貸し出すなど積極的な展開が続いていますが、これは、単に商業主義に走っているわけではなく、周囲からスタジオジブリに対する要望が引っ切り無しに寄せられており、それをすべて断り切れないというジブリの事情によります。つまり、それだけ、世間からの声が大きくなってしまったことの、ひとつの証だと思っています。

その後、2007年に企画制作協力した「男鹿和雄展」は29万人もの観客を集める大ヒットを記録し、同美術館の一日当たりの動員数の記録を作りました。ジブリや宮崎・高畑の名前ではなく、男鹿和雄の名を冠した初めての試みでしたが、この記録的な大成功により、ジブリのイベントも新たな展開が期待できるのではないかと思います。

「ハウルの動く城」における試み

2004年11月、宮崎駿監督最新作「ハウルの動く城」が公開されました。公開2日間の動員では日本映画歴代最高のオープニングを飾る大ヒットとなり、公開後6ヶ月で、興行収入においても動員においても「もののけ姫」を抜き、「千と千尋の神隠し」に続く、日本映画の興行史上第2位のヒット作品となりました。結果、日本映画の上位3作品を宮崎監督のジブリ作品で占めることとなり、ジブリとしては嬉しく思うというよりは、戸惑いの気持ちでいっぱいというのが正直な気持ちです。

「ハウルの動く城」の宣伝戦略はこれまでとは少し違っていました。つまり「宣伝をしない宣伝」です。最近の洋映画の宣伝が事前にほとんどの情報をCMや紹介記事で見せてしまい消費していることで、観客は事前に観てしまった様な気分になり、映画館に足を運ばなくなったのではないかと考えたからです。

この考え方に沿って、本格的な宣伝は公開前一ヶ月に集中し、地方キャンペーンもやめ、テレビスポットの投入も公開後を中心に据えました。また監督が作品を語ることもやめ、ストーリーもほとんど公開せず、予告編のテレビOAも見送ったのです。この宣伝方針は、ジブリにとって大きなチャレンジでした。いうなれば、これまでの宣伝戦略の否定ともいえるからです。結果として「ハウルの動く城」が大ヒットした現在、この挑戦はうまく行ったのではないかと判断しています。

さらに「ハウルの動く城」は初の試みとして、日本国内での公開より前に、第61回ベネチア国際映画祭のコンペ部門に出品されました。結果は「オゼッラ賞」を受賞し、公開前の事前宣伝に大きく寄与しました。さらには、翌年の第62回の同映画祭で、宮崎監督の長年にわたるアニメーション映画制作に対して、「金獅子栄誉賞」が贈呈されました。

宮崎吾朗監督のデビュー

2005年4月、スタジオジブリは徳間書店と分離独立し、株式会社となリました。これまで、徳間書店の常務取締役であり、スタジオジブリの経営責任者であった、鈴木プロデューサーが代表取締役社長に就任しました。そんな新体制になったジブリにとって、新作の発表はいち早く待ち望まれているところでした。そんなジブリが次回作に選んだのは、宮崎吾朗監督の「ゲド戦記」なのです。

「ゲド戦記」はジブリにとって、大いなるチャレンジでした。宮崎・高畑の名を冠しない単独上映の大作として、世間に真価を問うことにしたからです。また、それまで、アニメーション制作の経験がなかった宮崎吾朗監督にいきなり監督を任せるという決断も大いに世間を驚かせました。ご存知のように宮崎監督の長男である宮崎吾朗は、大学卒業後は造園の仕事に携わっていました。その後、ジブリ美術館の建設と運営を成功させ、愛知万博の「サツキとメイの家」の建設を指揮するなど、ジブリの仕事とはいえ映画製作とは関係のないところで活躍を続けていました。その宮崎吾朗が監督に抜擢されたのは、プロジェクトを統率する能力に秀でていたこと、絵コンテだけでなくレイアウトまで切れるだけの作画能力があること、物事の本質を見極める能力に秀でていたことを、プロデューサーの鈴木が見抜いていたことが挙げられます。

結果、「ゲド戦記」は作画イン後、僅か10ヶ月という短期で完成させることに成功、制作コストアップの問題に悩むスタジオにとって、解決作に対する一筋の光明となったのも事実です。

「ゲド戦記」は興行収入76.5億円、観客動員610万人のヒットを記録、2006年の邦画興行第一位となり、新人監督の興行の新記録を作りました。

ジフリ美術館ライブラリー事業のスタート

2007年1月、記者会見が開かれジブリ美術館ライブラリー事業のスタートが、ジブリ美術館の中島館長、シネマ・アンジェリカの畠中氏、ウォルト ディズニー スタジオ ホームエンターテイメントの塚越代表の出席のもと、高らかに宣言されました。これからジブリ作品だけではなく、高畑、宮崎監督が影響を受けた作品や、推薦する作品を過去作や世界中の作品から選んで、定期的に劇場公開し、DVDでライブラリーを作っていこうという主旨のプロジェクトです。前年の夏に公開したポール・グリモーの「王と鳥」の興行的成功を受けてのプロジェクトでした。

第一回作品としてロシアの油絵アニメーション作家ペトロフの新作「春のめざめ」、その後、ミッシェル・オスロ監督の新作「アズールとアスマール」、宮崎監督運命の作品「雪の女王」と公開され、その後、高畑・宮崎の愛すべき作品「パンダコパンダ」、ロシアでもっとも愛されている人形アニメ「チェブラーシカ」、劇場では初興行となる「動物農場」、そして「ルパン三世」1st.シリーズを公開し、着実にファン層を広げながら成果を挙げています。今夏には「ウォレスとグルミット」の最新作の公開準備中です。

このプロジェクトなどは、ジブリ美術館を中心に世界中に広がったアニメーションの巨匠たちとのリレーションなしでは成立できないものです。彼らの作品は一部を除いて商業主義とは一線を画した作品が多く、現在の日本では劇場公開もかなわない作品が多いことは、まことに残念な次第です。そこで、ジブリの名前を利用してもらってでも、素晴らしいアニメーション作品を少しでも世に広めることが出来ればという思い先行で行なっているものです。

ジブリ美術館ライブラリー事業は、これから、新作映画の上映とともに、ジブリが特に力を入れて続けて行く事業になるのではと思います。

宮崎監督4年ぶりの新作「崖の上のポニョ」

「ハウルの動く城」以来の宮崎監督4年ぶりの新作である「崖の上のポニョ」は、コンピューターによる表現を一切廃し、徹底的に手描きによる表現にこだわった意欲作となりました。世界的に3Dアニメが主流となりつつある現代において、日本のお家芸とも言える、高畑や宮崎がその発展に貢献してきた2Dアニメーションに徹底的にこだわった本作は、今後もスタジオジブリは2Dを中心に作品作りを続けることを世間に高らかに宣言したわけです。そのポニョは高い評価と多くの人々の支持を得られ、観客動員1287万人、興行収入155億円の大ヒット作となりました。また、第65回ベネチア映画祭のコンペ部門にもノミネートされ、審査員や観客から熱い支持と評価を得られたことも、忘れられない出来事です。

さらに、2010年夏には、「PONYO」として全米公開されました。上映館数はこれまで最大の927スクリーン。第一週目の興行成績は358万ドルで、ランキングの9位に入る成功を収めました。この成功は、全米での配給を手がけたキャスリーン・ケネディとフランク・マーシャルという大物プロデューサーの手腕によるところが大きいと思います。

若手監督の起用

「崖の上のポニョ」の制作が終わると、宮崎監督は新たな5ヶ年計画を発表しました。2010年、2011年に若手監督で新作を発表し、その2年後に自分の監督作品を公開するという、ジブリでは始めての長期プランの策定でした。この方針に従って、まずは2009年の12月、次回作「借りぐらしのアリエッティ」を、企画・脚本 宮崎駿で制作し、2010夏に公開することを発表しました。大量消費時代にあって「借りぐらし」という設定が今の時代にぴったりだという宮崎監督の発案によるものでした。

さて、では誰が監督になるのか?衆目の注目のもと、若手監督起用の第一弾として、スタジオジブリでトップアニメーターとして走り続けてきた米林宏昌が起用されたのです。この決定に当初困惑ぎみだった米林監督でしたが、持ち前の芯の強さで覚悟を決め、ベテランスタッフも一丸となって新人監督を盛り立て制作を続けました。結果として、「借りぐらしのアリエッティ」は、新人監督らしいみずみずしい感性と細やかなアニメートに裏付けられた作品として、世間からも大好評をもって受け入れられ、この年の邦画としてトップの興行成績を収めることができました。

さらに「借りぐらしのアリエッティ」は、「The Secret World of Arrietty」として、2012年2月17日には全米でも1522スクリーンで公開。ジブリ作品最大規模での公開となりました。 

続いて2011年夏、「コクリコ坂から」が公開されました。若手監督起用作品の第二弾として、「ゲド戦記」に続く2作目監督作品として、宮崎吾朗監督を中心に制作されたのです。

この年は誰しもが忘れがたい国難に直面した年でした。東日本大震災という未曾有の大震災が3月11日に発生したのです。震災直後、制作現場は一時、停止状態に追い込まれましたが、「我々がなすべきことは映画を制作すること。現場を放棄してはならない」という信念の元、監督らを中心に果敢にチャレンジ、多くの関係者の皆さんの協力や応援を得て、無事に公開することができました。この凄まじい自然災害の真っ只中にあって、世に送るにふさわしい作品であって欲しい、またこの作品が人々に元気を与えるものであって欲しいと願う中での公開でした。

震災後の暗いムードもあって、のきなみ映画興行が苦戦する中で、この作品も少なからず影響を受けたのですが、それでも結果としては国内興行は44.6億円、動員355万人となり、2011年の邦画興行ナンバーワンとなったのです。

年が明け2012年。更なる高見を目指して今度は、高畑勲監督・宮崎駿監督が新作に挑み続けています。ジブリの特徴として、いつも何か新しいことにチャレンジするという精神があります。確実にヒットを続けるなら、あるいは守りに入るならヒット作の続編やパート2をコツコツと送り出していくことの方が確実でしょう。ただ、ジブリはそういう選択は行ないません。無謀なことなのかもしれませんが、新たなる地平を求めて常に前進することこそ、スタジオジブリが持つ最大の特徴なのではないでしょうか。

宮崎駿監督・高畑勲監督の作品公開

2013年7月20日、宮崎駿監督作品「風立ちぬ」、同年11月23日、高畑勲監督作品「かぐや姫の物語」が公開されました。高畑監督の新作は14年ぶりであり、まさに待望の新作でした。当初は同日公開を目指した2作品でしたが、「かぐや姫の物語」は制作が遅れたため4ヶ月遅れとなりました。前者は興行収入120.2億円、観客動員1000万人を達成、2013年の日本での興行成績第一位となり、第86回アカデミー賞の長編アニメーション部門にもノミネートされましたが、世界中で大ヒットした「アナと雪の女王」と争い、惜しくも2度目のオスカー獲得はなりませんでした。後者は、その芸術性や表現が高く評価され、興行収入25億円、観客動員200万人の結果となりました。

「風たちぬ」の公開も続く9月6日、宮崎駿監督が突然、吉祥寺第一ホテルで記者会見を開き、長編映画制作からの引退を発表しました。国内外あわせて600名以上の記者が集まり、生中継のテレビを含めて70台のテレビカメラに囲まれる事態となり、世界中から引退を惜しむ声が上がりました。その後の宮崎監督は、自身が館主を務めているジブリ美術館の企画展示「クルミわり人形とネズミの王さま展」の制作や、漫画の執筆などで活動を再開しており、2014年11月には、米国アカデミー協会から"アカデミー名誉賞"の表彰を受けるべく渡米することになっています。

「思い出のマーニー」の公開と制作部門の活動休止

2014年7月、米林宏昌監督の監督第2作「思い出のマーニー」が完成し、公開されました。これはジブリ作品としては初の"宮崎駿"の名前がクレジットされていない作品で、「かぐや姫の物語」を見事に世に送り出した西村義明プロデューサーと、前作「借りぐらしのアリエッティ」で大ヒットを飛ばした米林監督がタッグを組んだ意欲作でした。また、これまで実写映画の美術を手がけて、数々のヒット作に参加してきた種田陽平氏を美術監督に迎えるなど、新世代ジブリの到来を予感させる作品であったと思います。

2014年8月、テレビのドキュメンタリー番組を通して、鈴木プロデューサーの口から「ジブリの制作部門の休止」が発表されました。スタジオは、再び変革の時を迎えつつあるといえるでしよう。しかし、スタジオジブリの航海はまだまだ続きます。

2014.9.-