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週一回更新コラム「ゲド戦記の作り方」

2006年4月22日

世界が物語をつむぐ ─ストーリー・絵コンテ(1)─

 
 番外編をはさみ、1ヶ月、間を頂きましたコラム「ゲド戦記の作り方」。
 予告編が公式配信され、「ゲド戦記」の映像・ボディコピー(あらすじコピー)等、作品の内容に関する情報を、お届け出来る時期となりました。


 これまで本コラムでは、映画「ゲド戦記」の「企画」がどのように立てられたか、「テーマ」・「世界観」・「キャラクター」について記してきました。

 今回は、ストーリー・絵コンテの第1回。
 アニメーションにおける、ストーリー作りについて書きたいと思います。


●ストーリー作りに王道はあるか


 今日、書店のテレビ・映画・演劇コーナーには、シナリオ・映像制作指南書の類が、山と積まれています。ワープロの普及によって、誰もが手軽に活字を連ねる事が可能になったように、今や家庭用のビデオカメラで撮影された高画質な映像を、パソコン上で簡単に編集出来るようになりました。かつてはひと握りの専門家の牙城であった映像制作という領域は、多くの人にその門戸を開いています。

 アニメーションの世界においても、例外ではありません。仕上(ペイント)から撮影に至るまでのフィニッシュワークを行うソフトウェアは、数万円で手に入る時代です。今や、数人のスタッフによって作られた作品が、市場に出回る事も珍しくなくなりました。

 26万部を越えるベストセラーになっている、ちくま新書の「ウェブ進化論──本当の大変化はこれから始まる(梅田望夫氏著)」において、著者は、チープ革命(今までは特定のメディアが持っていた表現手段が、タダ同然で手に入った現代社会)が起こり、「総表現社会」が到来するという、現在進行形の未来像を提示しています。検索エンジンや、オンライン百科事典の普及、ブログ等の様々な表現手段の発達によって、今後も、表現という領域に対する人々の興味は、より広汎化してゆくだろう──と。


 一方で、世に、シナリオや映像制作指南の本が溢れているという事実は、その道に、王道が無いことを示しています。シナリオ骨法にのっとり、緻密に構成された映画が、必ずしも成功するとは限らない。これが、映画の面白いところです。

 人の心は移ろいやすく、冷めやすい。誰の言葉だったか、「全ての小説(詩)はすでに書かれてしまった」というものがありますが、数多の物語が作り尽くされた現代、ストーリーを作るよりも前に、時代性をともなったテーマを設定することがとても重要になってくる。このコラムの第1回~第6回で、宮崎吾朗監督、鈴木プロデューサーら、スタッフの「ゲド戦記」の企画段階における試行錯誤について書きました。
 

 出鼻をくじくようですが、この場で、「ゲド戦記」のストーリー・シナリオ制作の過程を、詳しく記すのは控えておきたいと思います。皆さんには、映画を真っ新な状態で観て頂きたい。宮崎吾朗監督と脚本家が行ったシナリオ作業のプロセスをここに書きおこすことは、映画の内容を、必要以上に語ってしまうことにつながります。


 そこで今回は、アニメーションにおけるストーリー作りの、ある特徴について、書いてみたいと思います。2月11日(土)のコラム「全ては一枚の絵から始まった ─世界観(1)─」で、映画は、ストーリー作りよりも先に、世界観をともなった一枚の絵から生まれる──という事を書きました。今回は、その具体例、と言えるかもしれません。


●設定が物語を紡ぎ出す


 過日。

 日本を代表するアニメーション映画監督であり、「攻殻機動隊」「イノセンス」等の作品で知られる押井守監督と、ストーリー作りについてお話をする機会を持ちました。
 内容は多岐にわたったのですが、アニメーションの特質を理解しないで、シナリオ制作はあり得ないと、実に興味深い持論を披露して下さったのです。


 押井監督は、実写とアニメーションには、ストーリーが先か、設定が先かという本質的な違いがあることを指摘します。実写映画では、まずシナリオが作られ、必要なロケーションや舞台セットを、スタッフが手分けして設定・設計してゆく。ところが、アニメーションの場合は、設定が先にあり、そこから物語が生まれうるのだ──と。

 押井監督は具体例として、宮崎駿監督の「ルパン三世 カリオストロの城」を挙げました。
 カリオストロの「城」を舞台に、縦横無尽に繰り広げられるストーリー展開を例に取り、こう推測します。


 「カリオストロの城」は、物語よりも先に「城」があり、そこに幽閉されている姫(クラリス)のイメージが先にあったのではないか。その城の構造を、イメージボード段階で作り込み、そこから、ストーリーや、事件を引っ張る謎が考え出されたのに違いない。すなわち、宮崎駿監督の頭の中に最初にあるのは、「カリオストロの城」という建築物そのものだったのではないか──。


 通常、アニメーションにおけるイメージボード作業は、シナリオに書かれた言葉を越えるイメージを、スタッフが共有する為に作るもの。しかし、宮崎駿監督は、物語の舞台となる建築物の設定(イメージボード)を作り、そこから物語を生み出してゆく。押井監督は、アニメーションに、初めて建築という概念を持ち込んだ、宮崎駿監督の功績に光をあてます。

 確かに、「千と千尋の神隠し」の時を思い起こすと、企画段階で、前半部のおおまかなストーリーの骨子は決まっていましたが、宮崎駿監督は、「湯屋」という建築物を作り込み、そこを舞台に絵コンテを描きながら、ストーリーを膨らませていたのでした。

 驚くべきことに「千と千尋の神隠し」や「ハウルの動く城」では、宮崎駿監督が、準備段階に描いたイメージボードが、映画の中にほぼ全て登場します。無駄なイメージボードは一切描いていない。これが、イメージボードから物語が作り出されている大きな証拠だと、膝を叩いたのでした。
 宮崎駿監督は、若いスタッフがむやみに多くのイメージボードを描く事に警鐘を鳴らします。


「イメージボードは、映画に登場するもの以外描いてはならない。ポイントとなる画が1枚あって、それが面白ければ良いのだ」


 遡ること40年近くも前、原画スタッフとして関わった「長靴をはいた猫」(1969年)から、宮崎駿監督は、多重構造の建築物で縦横無尽に繰り広げられる物語を、数多く生み出してきたのでした。


 これを、実写でやるのは大変な事です。

 ストーリーやシナリオが出来ていない状況で、セットを作る訳にはいきません。(無論、ロケやセットを前にして、ストーリーが変更になるケースもありますが)シナリオがあり、場合によっては絵コンテがあり、設定(舞台)が選択されます。セットを先に作ってしまって、ストーリーを作りながら撮影したとしたら、あっという間にお金が尽きてしまうでしょう。


 勿論、緻密に伏線が張られた、実写顔負けのドラマも、アニメーションには存在しますが、全ての映像を、人間の手によって表現するという、その特殊な形態から、アニメーションでは、設定がキャラクターを生み、キャラクターと設定が物語を紡ぎ出し、その中で訴えたいテーマが開陳される、という、実写とは大きく異なる作り方が生まれたのです。

 押井監督の場合、それらは「パトレイバー」シリーズにおける東京であり、「攻殻機動隊」におけるネットワーク社会であり、現在公開中の映画「立喰師列伝」における戦後日本(の闇市)なのでした。


●宮崎吾朗監督が「ゲド戦記」で受け継いだもの


 ひるがえって思い起こすと、「ゲド戦記」のシナリオ・絵コンテ段階における宮崎吾朗監督の作業の進め方も、まさにそうだったな、と膝を打ったのでした。

 吾朗監督は、企画準備段階に、膨大な数のイメージボードを描きました。その多くは、原作に登場する様々なキャラクターやシーンでしたが、鈴木プロデューサーの指南を受け、次第に映画の舞台となる街や風景、建物の構造図を描いてゆくようになります。そして、彼自身が描いた一枚の竜の画と、宮崎駿監督が描いた物語の舞台となる街のイメージボードを得て、物語は大きく膨らんでいったのです。

 宮崎吾朗監督には、それまでアニメーションに関わった経験はありませんでした。しかし、かつて、建設コンサルタントとして公園や都市緑化の計画や設計に関わり、三鷹の森ジブリ美術館の総合デザインをてがけていた彼にとって、街の構造や建築物、気候風土を作り込む作業は、それまで培ってきた様々なノウハウを生かす、絶好の場でした。


 こうして、吾朗監督は、監督日誌第49回に記されたプロット(あらすじ)と共に、この映画に登場する舞台のイメージボードを、脚本家に手渡します。吾朗監督は、脚本家にプロットの説明をすると共に、映画の中に登場する舞台のイメージと、その街に生きる人々の気分を伝えていました。


 かつて栄華を誇った文明が、今まさに崩れつつある風景。
 均衡が崩れ、黄昏を迎えた世界──。


 ぜひ、このHPから、「ゲド戦記」の予告編をご覧になって頂き、吾朗監督のイメージをもとに、ジブリ背景美術部が筆をふるった、背景=世界に注目してみてください。勿論、そこに息づく、キャラクター一人ひとりの表情にも。そして、鈴木プロデューサーがボディコピーにこめた、映画のストーリーとテーマの片鱗に、触れて頂ければ幸いです。


 次回は、鈴木プロデューサーのインタビューでも登場していた、吾朗監督の絵コンテ制作について書いてみたいと思います。