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対談 亀渕昭信×大瀧詠一(2/6)ロックンロールの栄光と衰退

大瀧:1963年以前は、日本で洋楽のロックンロールやポップスが聴かれている割合はすごく低かったと思う。

亀渕:そうだね。僕が学生だった50年代は、クラスにひとりかふたりくらいしかエルヴィスを聴いている人はいなかった。日本の音楽の中に洋楽のポップスやロックが占める割合は5%から10%くらいだったと思う。

大瀧:それが63~64年となると変わってくる。もう圧倒的に若者がAKB48を聴くみたいに全員ビートルズを聴いたんだから。あんなことって、あの前にはないんだもの。

亀渕:ビートルズが登場した頃はまさにそう。本にも書いたけれども、若者文化が変わってきたという目で見るようになったのは、やっぱりビートルズが出てきてから。若者たちにこびるというか、こういう音楽がわからないとまずいぞみたいなことでおじさんたちも若者についてきた。

大瀧:無理やりビートルズの武道館公演を見に行ったりしている。武道館を使用することに反対していた正力(松太郎)さんは"ぺーとるず"と言っていた。

亀渕:朝日新聞には作家の大佛次郎さんのコンサート評が載ったりもした。そんな時代だよね。

大瀧:その頃、一番の役割を果たしたのはラジオで、ラジオがヒットをつくっていた。それはアメリカも同じなんだけど、日本でのテレビの本格的な普及は64年の東京オリンピックからだから、63年くらいまでというのは、メディア的にもひとつ前の時代だった。だから、ラジオの持っている力はすごく大きかった。大きいと言ったって、今みたいに大量宣伝で何とかということではなくて、番組で選曲をするそれこそ亀渕さんのような人たちが「こういうのがいいんじゃないか」とか「僕はこれが好きだ」とか、そういう思い込みでできた時代だった。戦後すぐの子供はレコードを買ったり、ラジオを聞いたりという時代ではなかったけれど、その後の団塊の世代が中学、高校になってお小遣いが少しずつもらえるようになった時代と、この62、63年というのは合致している。この辺の中高生が買わなければ、ポップスはあれほどヒットしなかっただろうね。

亀渕:1963年って、ビートルズのビフォアとアフターがぶつかる音楽の豊漁期で、いい作品もたくさんできた。今から思うと60年代にはそういうすごい音楽が数多くあった。

大瀧:63年が前夜で64年はビートルズ以降なんだけど、そこに行く前の62~63年にいろいろなものがうねっていて、64年で大爆発する。アメリカではそれが50年代にもあって、この本にも書かれているけど、50年代半ばから後半。56年にエルヴィスの「ハートブレイク・ホテル」が大ヒットして、それから2年くらいでジーン・ヴィンセントとか、エディ・コクランといったエルヴィスのフォロワーがいっぱい出てきてロックが隆盛を極める。でも、その流れは1958年に突然途絶える。

亀渕:いじめられたりとか、不幸に遭ったりとか……。

大瀧:58年はエルヴィスが入隊した年でそれがきっかけだった。原因はそれだけではなかったとしても、丁度その頃に雨後のタケノコのエルヴィスフォロワーもパワーダウンして、一気にロックンロールが退潮して翌59年のバディ・ホリーの死がその象徴として捉えられた。ドン・マクリーンが「アメリカン・パイ」で歌っているよね。それともうひとつ、58年にすごく不思議なことがあった。「ボラーレ」というイタリア語の曲が大ヒットしたんだ。イタリア語で全米1位になったのは当然初めて。しかも、イタリアは第2次大戦で敵国だったわけだ。で、もちろんドイツも日本も敵国だったんだけれども、その58年に1位だ。アメリカン・チャートでそれまで外国語の歌というのは殆どチャート・インしていないし、ましてやイタリア人の歌で、それが大ベストセラーでグラミー賞まで受賞する。驚いたことにリズム&ブルース(R&B)チャートでも2位にランクされているんだよ。

亀渕:まだアメリカの西海岸がポピュラー音楽の中心になる前、流行の震源地であったアメリカ東部の都市には、イギリス、アイルランド、ドイツに次いで、歌好きのイタリア移民が多かったせいもあるんだろうね。そもそもランキングを作成する調査方法にも問題があったようだし……。

大瀧:2年後にボビー・ライデルが英語版を歌っているけど、何で「ボラーレ」が58年に1位になったのかというのが不思議でしようがない。同年には更に「コメ・プリマ」というイタリア語の曲もチャート・インしているんだよ。58年にエルヴィスの入隊とイタリア語曲のヒット。59年にバディ・ホリーが死んで、60年にはイギリスにツアーに行っていたエディ・コクランが事故死する……。