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週一回更新コラム「ゲド戦記の作り方」

2006年2月11日

全ては一枚の絵から始まった ─世界観(1)─

 
 今回から、アニメーション映画がどのようにして作られているのか。
 「ゲド戦記」の具体的な制作過程を、紹介してゆきます。

 2月から3月にかけては、「ゲド戦記」が、どのようにして動き始めたのか。その企画段階のエピソードを。3月以降、予告編の映像をお届け出来る時期になりましたら、リアルタイムに、日々像を結んでゆく映画の輪郭を、本編画像と共にお伝えしてゆく予定です。


 今日は、「ゲド戦記」企画準備段階を振り返る1回目。
 映画が、動き出した瞬間のお話です。


●映画=ストーリーなのか?


 皆さん、映画作りとは、何から始まると思いますか?

 ストーリーを作るところからでしょうか。それとも、キャラクター作り? 人それぞれ、映画の見方が違うように、作り方に対する視座も様々ですが、映画は、物語作りから始まるのでは? と想像される方が多いのではないでしょうか。

 かくいう僕も、ジブリに入るまで、映画作りとは当然、ストーリーを作るところから始まるのだと思っていました。あらすじを練りながらキャラクターを設定し、脚本を作る。その脚本をもとに、キャラクターや舞台設定の絵を起こしてゆく。しかし、答えは、全く違うものでした。


 アニメーション映画は、一枚の絵から生まれるのです。


●企画準備室開設


 2005年2月7日(月)、スタジオジブリ・第1スタジオの3階に設置された企画準備室で、黙々と机に向かう吾朗監督の姿がありました。

 二十畳ほどのフロアを、即席の壁で半分に区切った長方形の部屋には、作画用の机がふたつと、会議用の長テーブルがひとつ。胸丈ほどの観葉植物が、殺風景な部屋に緑をそえています。入り口近くには、可動式の棚が置かれ、主にヨーロッパを中心とした写真集や絵画資料が並んでいました。
 
 
20060211_jyunbishitsu.jpg
『まだ、イメージボードを貼りたての頃の準備室の様子』
 
 
 この日は、映画「ゲド戦記」の制作が実質的に始まった日。遡ること一年前から、原作『ゲド戦記』の映画化準備を進めてきた吾朗監督は、鈴木プロデューサーから、ひとつの指示を受けていました。


 この映画を象徴する、一枚の絵を描くこと──。


 それは、その絵一枚で、映画の世界観を想像させるものでなければならず、映画に登場する1シーンでなければならず、いずれはポスターとして成立するようにしなければならない。
 曰く、高畑勲監督や宮崎駿監督は、イメージボードというものを描く。(高畑監督の場合は、具体的なイメージを口頭で伝え、メインスタッフが絵を描いている)

 イメージボードとは、まだ見ぬ映画の中に、どのような世界が存在し、如何なるキャラクターが息づくのかを、描きだしたもの。実写・アニメーションを問わず、映画は映像が命。いくら血湧き肉躍るストーリー展開や、魅力的なキャラクターを用意しても、説得力のある映像を作ることが出来なければ、映画は成立しない。

 優れた映画は、1カット観れば解ると言いますが、実際に映画に登場する、魅力あふれる1シーンが描けたとき、まだ見ぬ映画は、そこに立ち現れる──と言うのです。


 当時の記録を繰ると、以下のメモを見つけました。


 その世界が「どういう世界なのか」を、明確にすること。
 生活・風俗・習慣・思想。何が善で、何が悪なのか。「ゲド戦記」で言えば、この世界での魔法はどうなっているのか。「ゲド戦記」のように、架空の、古い時代の映画を作るときは、その世界の構造を文章化し、絵にする事が何より大切である。


 吾朗監督の、まだ見ぬ一枚の絵を探す日々が始まりました。

 横幅30センチ程の画用紙に、鉛筆でイメージを描きだし、透明水彩絵の具で着彩してゆく。あっという間に、壁一面がイメージボードで一杯になった事を思い出します。
 一方で、僕の仕事は、スタッフ集めでした。映画は一人では生まれない。企画段階に、吾朗監督をとりまくスタッフを、どれだけ集めることが出来るか。準備室の前を通りかかるスタッフに声をかけ、「覗いていきませんか?」と誘い込む。まるで、繁華街の勧誘のようでした(笑)

 やがて、当時、ジブリ美術館の短編作品の作業をしていた社内のスタッフたちや、社外のフリーアニメーターたちが準備室に足を運びはじめ、吾朗監督と共に、イメージボードや美術ボードを描き出します。その中に、現在「ゲド戦記」のメインスタッフである、作画監督の山下明彦・稲村武志、美術監督の武重洋二の姿もありました。


●絵を探しながら見えてくるもの


 映画を象徴する、一枚の絵を探す──。

 この、あまりに茫漠とした課題の答えを見つけるために、吾朗監督が立てた方針は以下の3つでした。


 1.今何を、誰に向けて作るのか──テーマをハッキリさせること。

 2.作品のキーイメージを10点以上描き、映画の全体像を掴むこと。

 3.以上2点を盛り込んだ、企画書を作成すること。


 描きたいことを明確にし、重要なシーンのイメージ画を描きながら、作品を象徴する一枚を探そう、と考えたのです。漠然と目標を持たずにやっても意味が無い。それらは企画書の形にまとめ、鈴木プロデューサーに提出する事にしよう、と。


 余談ですが、監督という仕事には、自分の抱いているイメージを、明確にスタッフに伝える資質が求められます。その証拠に、アニメーション映画の監督は、皆一様にお喋りです(笑)
 「攻殻機動隊」や「イノセンス」で有名な押井守監督とお話した時のこと。午後2:00から喋りはじめて、話が終わったのが、深夜3時! 13時間喋り通しでもまだ語り足りない事がある。高畑勲監督も、宮崎駿監督も、一緒にいて、話題が尽きるという事がありません。喋ることが、監督の大切なお仕事なのです。


 この、一枚の絵を探すために費やした時間は、思わぬ効果を生み出しました。部屋に集まってくるスタッフに対して、吾朗監督は、「ゲド戦記」をどう映画化したいのか、何を訴えたいのかを、語らなければなりません。手がかりは、描き進めているイメージボードと、言葉によるイメージの伝達のみ。いくら、スタジオの仕事とはいえ、スタッフ一人ひとりに「面白そう!」と思って貰えなければ、映画は動き出しません。どうやったらみんなの興味を惹くことができるだろう? その為にはとにかく、描いて描いて、語って語るしかないのです。

 スタッフの反応をうかがいながら、喋る内容も、イメージボードの内容も、徐々に変化し、具体的になってゆきました。今、僕の手元に保管している、吾朗監督やスタッフたちが描きだしたメモ・イメージ画は、A3・40ページのクリアファイルで7冊程になりますが、実際にはこの数倍のメモやイメージボードが描かれた筈です。

 実際に完成した絵コンテには登場しないイメージボードも、改めて見返すと、細かな建造物や登場人物の装束などが、今作っている映画に生かされていることがよくわかります。
 
 
20060211_file.jpg
『イメージボードを保管しているファイル』
 
 
 一枚の絵を探す膨大な作業の中で、物語の舞台の世界観、キャラクターやストーリーが決まってゆく。加えて、原作について、スタッフの中で議論を重ねるうちに、スタッフ同士の結束も深まっていった。今思えば、鈴木プロデューサーは、この「一石三鳥」を狙っていたのかもしれません(笑)


●人間と竜がひとつになった日


 主人公の少年の登場シーンから、彼を導くキャラクターとの出会いのシーン。映画のクライマックスシーンに至るまで、膨大な量のイメージボードを、吾朗監督とスタッフが、頭を突きあわせて描く日々が続きました。

 しかし、準備室開設から2ヶ月あまりが経過し、部屋の壁がイメージボードで一杯になって、貼りきれなくなっても、「この一枚」という絵は見つかりませんでした。「これはどうだ!」と思う絵が出来る度に、吾朗監督は、鈴木プロデューサーに見せにいきますが、なかなか「これ!」という返事は得られません。

 それでも、企画を前に進めなければならない。吾朗監督と僕らは、それまでの成果を企画書の形にまとめ、ジブリの近くにある打ち合わせ用の事務所で、鈴木プロデューサーに見せる事になります。
 2005年3月24日(木)の夜のことでした。


 鈴木プロデューサーの反応はこうでした。

 よくここまでやってきたと思う。でも、もうひとつ欲しい。それは、竜と人間の関係だ。原作「ゲド戦記」の竜は、倒すべき強大なモンスターではない。世界のどこかに存在する、神聖なものとして登場する。ひるがえって現代はどうか。人間の欲望が中心で、神聖なるものの存在が、信じられない時代だと思う。世界が人間だけで構成されていったら、酷くなる一方。竜は自然なのだ。だから、人間と竜が、共に対峙している絵が欲しい。


 その瞬間、吾朗監督は、近くにあったコピー用紙を手に取り、一心不乱にイメージを描き出しました。他に案件はあったのですが、その事はすっかり忘れてしまったようでした(笑)
 その後、僕は退席しましたが、先の、ヨミウリ・オンラインの鈴木プロデューサーのインタビューにもあるように、絵の構図に関するアドバイスなどを受けながら、吾朗監督は一晩かけて、一枚の絵を描き上げました。


 それが、トップページの、現在第1弾ポスターとして全国の劇場に掲示されている、少年と竜が差し向かう絵の原画だったのです。
 
  
 20060211_poster.jpg
『現在、作画部に掲示してある第1弾ポスター』
 
 
 風にたなびく草原に、まるで今しがた舞い降りたかのように羽をたたむ竜。その貌は、凶悪な怪獣のそれではなく、柔らかな優しさをたたえている。竜の前で、両手を広げて立つ少年。その顔はハッキリとは見えませんが、何かを求めているというよりは、全てを受け容れたかのようです。その手前に転がる、朽ちた円柱のようなものは、かつてそこに、建造物があった事を思わせました。


 その原画を見た瞬間、それまで語り尽くしてきた言葉が全て吹き飛び、そこに「ゲド戦記」の世界が息づき始めた事を、僕は感じたのでした。


 映画は映像である。そこに、世界が存在しなければならない。
 一枚の絵の中に、世界観を表現する事が出来なければ、そこに物語も、登場人物も生まれてこない。


 次回は、世界観を更に具体的に決め込むために、スタッフ達が取り組んだ、ある課題について、書きたいと思います。