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2005年12月14日

第一回  『ゲド戦記』だからやろうと思った

 昨日、『ゲド戦記』の公開が正式に発表されました。今朝、新聞・雑誌を見て、あまりにも大きな反響に驚いていますが、これにひるむことなく、いつもと変わらず制作を続けています。


 今日は、私が監督を引き受けた理由を書きますが、いちばんの動機は、原作が『ゲド戦記』だったからです。

 『ゲド戦記』をはじめて読んだのは、高校生のときでした。自分で買ったのではなく、家にあったものを読みました。

 現在『ゲド戦記』は第6巻『ゲド戦記外伝』まで出版されていますが、当時出ていたのは、第3巻『さいはての島へ』まででした。

 その時いちばん面白かったのは、第1巻でした。どこが面白かったのかというと、魔法の国のハラハラドキドキではなく、自分の魔法の力をうまく操ることができない少年の内面的な成長に共感したからです。高校生だった自分を主人公の少年ゲドにダブらせました。

 そして今回、映画『ゲド戦記』の企画に参加するにあたって原作を読み直してみると、20年前とはまったく違った魅力を発見しました。

 昨今、魔法使いの物語といえば「魔法の世界で大冒険!」や「魔法学校対決!」というように、魔法を人知を超えた超能力として描くのが普通ですが、『ゲド戦記』では、魔法は日々の生活の真理を知る手段として描かれています。

 第1巻で、ゲドの師匠であるオジオンがこんなことを言っていました。

そなた、エボシグサの根や葉や花が四季の移り変わりにつれて、どう変わるか、知っておるかな? それをちゃんと心得て、一目見ただけで、においかかいだだけで、種を見ただけで、すぐにそれがエボシグサかどうか、わかるようにならなくてはいかんぞ。そうなってはじめて、その真の名を、そのまるごとの存在を知ることができるのだから

 『ゲド戦記』において、魔法とは、物の本質を探り真の名を知ることで、そのものの存在自体に働きかけることなのです。だから、魔法を学ぶということは物の本質を学ぶということにほかなりません。

 この魔法の考え方は、本当に新鮮な発見でした。

 いまファンタジーというと、「魔法の力を手に入れてその世界で冒険する物語」というイメージがまず浮かんできます。でも、それは本当にファンタジーの本質なのか? という思いが私にはあります。

 たとえば「なぜ、この世にはこんなにも美しい夕日があるのだろう」といった日常の些細なことであったとしても、それが存在することの不思議、それこそがファンタジーなのだと、私は思います。