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line スタジオジブリは2004年2月、堀田善衞氏の著作の3作品を復刊し、堀田氏が出演した「NHK人間大学」などの番組をビデオグラム化します。このWEBサイトは、その書籍とビデオグラムを紹介するサイトです。
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堀田善衞
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堀田善衞 ほったよしえ [1918〜1998]
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1918年、富山県高岡市に生まれる。慶應義塾大学仏文科卒業。1942年、国際文化振興会に就職し、1945年に中国に渡り上海で敗戦を体験する。その後、中国国民党宣伝部に徴用され、1947年帰国。1951年に『広場の孤独』『漢奸』などで芥川賞を受賞。受賞作である『広場の孤独』で描かれた、歴史の大きなうねりに翻弄されつつも時代と向きあおうとする人物像は、この後も一貫して作品の中に登場する。その後、長編では『歴史』『審判』『海鳴りの底から』『若き日の詩人たちの肖像』などを執筆。同時にアジア・アフリカ作家会議の事務局長、議長も歴任した。近代化していくスペインの変化の中で歴史の観察者として絵筆をとりつづけた『ゴヤ』四部作で大仏次郎賞を受賞。1977年より約10年間にわたってスペインに移住。その後も『定家明月記私抄』(正続)、『路上の人』、『ミシェル 城館の人』(全三巻)など、乱世の観察者たちを主役に、文明と歴史を考える作品を精力的に執筆した。1998年、80歳で死去。
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表紙 > 堀田善衞年譜
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一九一八年(大正七年) line line line 七月一七日、富山県射水郡伏木町(現・高岡市)に生まれる。父・堀田勝文、母・くにの三男で末っ子。生家は江戸時代から続く廻船問屋を営む旧家だった。
一九二五年(大正一四年) 七歳。伏木尋常小学校に入学。
一九三一年(昭和六年) 十三歳。石川県金沢市の県立第二中学校に入学。家業が傾いたため、中学時代は親戚の楽器店やアメリカ人宣教師宅に下宿する。音楽家志望だったが、耳の病気にかかり断念。
一九三六年(昭和一一年) 一八歳。慶応大学法学部政治学科予科に進学。入試のために上京したところ、二・ニ六事件に遭遇する。
一九三九年(昭和一四年) 二一歳。慶応大学法学部政治学科に進学。
一九四〇年(昭和一五年) 二二歳。文学部仏蘭西文学科に転科。在学中の学友に白井浩司(仏文学者) 加藤道夫(劇作家)、芥川比呂志(俳優)らがいた。
一九四ニ年(昭和一七年) ニ四歳。九月、大学を繰上卒業。国際文化振興会に就職する。大学在学中から詩の同人誌「荒地」などに参加し、鮎川信夫、田村隆一、中村真一郎、加藤周一らを知り、大学卒業後は、吉田健一を通じて「批評」の同人となり、中村光夫、河上徹太郎、小林秀雄、山本健吉らを知る。これら同人誌に詩、エッセイ、評論などを発表する。
一九四三年(昭和一八年) 二五歳。軍令部臨時欧州戦争軍事情報調査部に徴用される。
一九四四年(昭和一九年) 二六歳。東部第四八部隊に召集されるが、骨折による胸部疾患のため召集解除となる。
一九四五年(昭和二○年) ニ七歳。国際文化振興会に戻り、三月一〇日の東京大空襲を体験。その後、派遣されて中国に行く。上海で中日文化協会に勤めていた武田泰淳、石上玄一郎と知り合う。また草野心平を知り、詩誌「歴程」の同人となる。敗戦後の一ニ月、中国国民党宣伝部に留用される。
一九四六年(昭和ニ一年) ニ八歳。国民党宣伝部に留用のまま上海に滞在。
一九四七年(昭和ニニ年) 二九歳。引揚船で帰国し、世界日報社に入社。
一九四八年(昭和ニ三年) 三〇歳。世界日報社解散のため退社し、神奈川県逗子市に転居。一ニ月、戦後最初の小説「波の下」を「個性」に発表。
一九五〇年(昭和ニ五年) 三ニ歳。『モーパッサン詩集』(酣燈社)を翻訳刊行。
一九五一年(昭和ニ六年) 三三歳。九月、「中央公論・文芸特集」に「広場の孤独」を全編掲載。同月に「文学界」に発表した「漢奸」とともに、昭和ニ六年度下半期の芥川賞を受賞する。第一創作集『広場の孤独』(中央公論社)を刊行。『白昼の悪魔』(アガサ・クリスティー、早川書房)を翻訳刊行。
一九五ニ年(昭和ニ七年) 三四歳。連作小説集『祖国喪失』(文藝春秋新社)を刊行。加藤道夫の脚色・演出で文学座が『祖国喪失―歯車・漢奸より』を公演。
一九五三年(昭和二八年) 三五歳。父、勝文死去。初の長編『歴史』(新潮社)、新文学全集『堀田善衞集』(河出書房)、現代日本名作選『広場の孤独・祖国喪失』(筑摩書房)を、それぞれ刊行。
一九五五年(昭和三〇年) 三七歳。長編『夜の森』(講談社)、長編『時間』(新潮社)、長編『記念碑』(中央公論社)を刊行。埴谷雄高・野間宏・梅崎春生・武田泰淳・椎名麟三・中村真一郎と「あさって会」結成。
一九五六年(昭和三一年) 三八歳。ニューデリーで開かれる第一回アジア作家会議に、日本からの唯一の参加者としてインドに行く。日本文化人会議より平和文化賞を受賞。『記念碑』第ニ部である『奇妙な青春』(中央公論社)を刊行。
一九五七年(昭和三ニ年) 三九歳。中国作家協会・中国人民対外文化協会より井上靖らと共に中国に招待される。世界推理小説全集43『A・B・C・殺人事件』(アガサ・クリスティー、東京創元社)を翻訳刊行。長編『鬼無鬼島』(新潮社)、『インドで考えたこと』(岩波新書)を刊行。
一九五八年(昭和三三年) 四〇歳。第一回アジア・アフリカ作家会議の準備のためソビエト、フランス、アフリカなどを歴訪。NHKラジオドラマ「日本の天」で芸術祭奨励賞を受賞。連作短編集『現代怪談集』(東京創元社)、新選現代日本文学全集30『堀田善衞集』(筑摩書房)を刊行。
一九五九年(昭和三四年) 四一歳。アジア・アフリカ作家会議日本協議会事務長に就任。評論集『上海にて』(筑摩書房)、評論集『後進国の未来像』(新潮社)を刊行。唯一の戯曲「運命」が、劇団民芸によって上演(演出・宇野重吉)される。
一九六〇年(昭和三五年) 四二歳。NHKラジオドラマ「渦潮」によって芸術祭奨励賞を受賞。評論集『建設の時代』(新潮社)、長編『零から数えて』(文藝春秋新社)、短編集『香港にて』(新潮社)を刊行。
一九六一年(昭和三六年) 四三歳。アジア・アフリカ作家会議東京臨時大会に事務局長として出席、国際準備委員会委員長として報告を行う。島原の乱を描いた長編『海鳴りの底から』(朝日新聞社)を刊行。
一九六二年(昭和三七年) 四四歳。第ニ回アジア・アフリカ作家会議のため、カイロに行き、全体会議で運動報告を行う。日本文学全集67『堀田善衞集』(新潮社)を刊行。
一九六三年(昭和三八年) 四五歳。文化放送ラジオドラマ「天と結婚」で芸術祭奨励賞を受賞。団伊玖磨の合唱・管弦楽曲『岬の墓』のために作詩、芸術祭賞を受賞。原爆投下に携った米兵を主人公にした長編『審判』(岩波書店)を刊行。
一九六四年(昭和三九年) 四六歳。キューバ革命蜂起記念祝典に招待を受けて出席。評論集『文学的断面』(河出書房新社)を刊行。
一九六五年(昭和四〇年) 四七歳。長編『スフィンクス』(毎日新聞社)、日本現代文学全集99『野間宏・堀田善衞集』(講談社)を刊行。
一九六六年(昭和四一年) 四八歳。『キューバ紀行』(岩波新書)、エッセイ集『歴史と運命』(講談社)を刊行。
一九六七年(昭和四二年) 四九歳。われらの文学9『堀田善衞・深沢七郎』(講談社)、編著・講座中国4『これからの中国』(筑摩書房)を刊行。
一九六八年(昭和四三年) 五〇歳。ソビエト・タシュケントで開かれたアジア・アフリカ作家会議十周年記念集会に出席。席上で公式に、ソ連軍によるチェコスロバキア占領について抗議。現代文学大系61『堀田善衞・遠藤周作・阿川弘之・大江健三郎集』(筑摩書房)、日本の文学73『堀田善衞・安部公房・島尾敏雄』(中央公論社)、自伝的長編『若き日の詩人たちの肖像』(新潮社)を刊行。
一九六九年(昭和四四年) 五一歳。連作美術エッセイ『美しきもの見し人は』(新潮社)、評論集『小国の運命・大国の運命』(筑摩書房)、日本短編文学全集48『野間宏・花田清輝・堀田善衞・安部公房』(筑摩書房)を刊行。
一九七〇年(昭和四五年) 五二歳。インドで開かれたアジア・アフリカ作家会議に出席。書き下ろしの連作『橋上幻像』(新潮社)、大原三千雄・木下順ニと共同で編んだアンソロジー『日本原爆詩集』(太平出版社)、短編集『あるヴェトナム人』(新潮社)を刊行。
一九七一年(昭和四六年) 五三歳。現代日本の文学40『堀田善衞・深沢七郎集』(学習研究社)、新潮日本文学47『堀田善衞集』(新潮社)、長編エッセイ『方丈記私記』(筑摩書房)を刊行。『方丈記私記』で、第二五回毎日出版文化賞を受賞。
一九七二年(昭和四七年) 五四歳。現代日本文学大系87『堀田善衞・遠藤周作・井上光晴集』(筑摩書房)、唯一の新聞連載小説『19階日本横丁』(朝日新聞社)、を刊行。
一九七三年(昭和四八年) 五五歳。カザフ共和国のアルマ・アタで開催されるアジア・アフリカ作家会議に出席。武田泰淳との対話『私はもう中国を語らない』(朝日新聞社)、経済界トップとの対談集『けいざい問答』(文藝春秋)、『堀田善衞自選評論集』(新潮社)、現代の文学14『堀田善衞』(講談社)を刊行。
一九七四年(昭和四九年) 五六歳。アジア・アフリカ会議日本協議会主催の日本・アラブ文化連帯会議に出席。『ゴヤ 第一部 スペイン・光と影』(新潮社)を刊行。六月から翌年九月にかけて『堀田善衞全集』(全十六巻、筑摩書房)が刊行される。
一九七五年(昭和五〇年) 五七歳。『ゴヤ 第二部 マドリード・砂漠と緑』(新潮社)を刊行。
一九七六年(昭和五一年) 五八歳。『ゴヤ 第三部 巨人の影に』(新潮社)を刊行。
一九七七年(昭和五ニ年) 五九歳。『ゴヤ 第四部 運命・黒い絵』(新潮社)を刊行。『ゴヤ』全4巻により、大佛次郎賞を受賞。五月、船でヨーロッパへ旅立つ。以後、数回の帰国をはさみ、一九八七年一二月まで、スペイン各地に住む。エッセー集『本屋のみつくろい―私の読書』(筑摩書房)、筑摩現代文学大系73『堀田善衞・長谷川四郎集』(筑摩書房)を刊行。
一九七八年(昭和五三年) 六〇歳。ソビエトのタシュケントで開かれたアジア・アフリカ作家会議二十周年記念大会に出席。横浜からロッテルダムへの航海日記『航西日誌』(筑摩書房)を刊行。
一九七九年(昭和五四年) 六一歳。スペイン政府から賢王アルフォンソ十世十字章を受賞。アンゴラのルアンダで開かれたアジア・アフリカ作家会議に出席し、ロータス賞を受賞。『スペイン断章―歴史の感興』(岩波新書)、エッセー集『スペインの沈黙』(筑摩書房)を刊行。
一九八〇年(昭和五五年) 六二歳。スペイン滞在日記『オリーブの樹の蔭に―スペイン430日』(集英社)を刊行。
一九八ニ年(昭和五七年) 六四歳。ドイツ・ケルンで開催された国際文学者平和会議INTERLIT'82に出席。
一九八四年(昭和五九年) 六六歳。アジア・アフリカ作家会議議長を辞任。エッセー集『日々の過ぎ方―ヨーロッパさまざま』(新潮社)、写真文集『カタルーニア讃歌』(写真・田沼武能、新潮社)を刊行。
一九八五年(昭和六〇年) 六七歳。書き下ろし長編『路上の人』(新潮社)を刊行。
一九八六年(昭和六一年) 六八歳。エッセー集『歴史の長い影』(筑摩書房)、『定家明月記私抄』(新潮社)、中世小説集『聖者の行進』(筑摩書房)、加藤周一との対話『ヨーロッパ・二つの窓』(リブロポート)を刊行。
一九八八年(昭和六三年) 七〇歳。『定家明月記私抄 続編』(新潮社)を刊行。
一九八九年(昭和六四年 /
平成元年)
七一歳。同時代評集『誰も不思議に思わない』(筑摩書房)、連作小説集『バルセローナにて』(集英社)、昭和文学全集17『椎名麟三・平野謙・本多秋五・藤枝静男・木下順ニ・堀田善衞・寺田透』(小学館)を刊行。
一九九一年(平成三年) 七三歳。モンテーニュの生涯を描いた長編『ミシェル 城館の人 第一部 争乱の時代』(集英社)を刊行。
一九九二年(平成四年) 七四歳。七月から一〇月まで13回にわたってNHK教育テレビ『NHK人間大学 時代と人間』に講師として出演。『ミシェル 城館の人 第二部 自然 理性 運命』(集英社)、同時代評第二部『時空の端ッコ』(筑摩書房)、司馬遼太郎、宮崎駿との鼎談集『時代の風音』(ユー・ピー・ユー)を刊行。
一九九三年(平成五年) 七五歳。回想録『めぐりあいし人びと』(集英社)を刊行。五月から翌年八月にかけて、前回の全集に増補した第二次『堀田善衞全集』(全十六巻、筑摩書房)が刊行される。
一九九四年(平成六年) 七六歳。『ミシェル 城館の人 第三部 精神の祝祭』(集英社)を刊行。
一九九五年(平成七年) 七七歳。朝日賞受賞。『ミシェル 城館の人』全三巻で和辻哲郎文化賞を受賞。同時代評第三部『未来からの挨拶』(筑摩書房)を刊行。
一九九八年(平成一〇年) 八〇歳。日本芸術院賞を受賞。同時代評第四部『空の空なればこそ』(筑摩書房)、『ラ・ロシュフーコー公爵傳説』(集英社)を刊行。九月五日、脳梗塞で死去。

没後、『天上大風-全同時代評 一九八六年-一九九八年』(一九九八 筑摩書房)、日本古典論集『故園風来抄』(一九九九 集英社)、『堀田善衞詩集 一九四二〜一九六六』(一九九九 集英社)、未発表詩集『別離と邂逅の詩』(二〇〇一 集英社)が刊行された。

(スタジオジブリ出版部編)
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