特別寄稿 もうひとつの風を待つ。──「ゲド戦記」映画化にむけて

 
特別寄稿 もうひとつの風を待つ。


──「ゲド戦記」映画化にむけて

 
清水真砂子

 
 「(二〇〇五年)十二月十三日、ジブリから正式発表があります」。用事のついでにFAXでそう知らせてくれたのは、岩波書店、児童書編集部のWさんだった。中味が「ゲド戦記」の映画化の話であるのはわかっていた。宮崎駿さんではなく息子さんの吾朗さんが手がけることになりそうなこともわかっていた。が、わかっていたのはそこまでだった。正式発表というからにはいよいよ映画化に向けて動き出すのだとは思ったが、あの六巻にわたるアースシーの世界をアニメーション映画でどう扱うのか、その辺はまったく予想もついてはいなかった。


 発表の翌日の新聞で、四巻も視野に入れつつ、第三巻『さいはての島へ』を中心にすえると知ったとき、私は「ああ、大丈夫」と思った。「きっと初々しい、いい作品になる」。


 宮崎吾朗さんに初めて会ったのは二〇〇五年四月下旬のある日のことだった。約束のホテルのコーヒー・ラウンジで吾朗さんとジブリのスタッフおふたりに会い、夕食まで御馳走になって帰宅した私は、いささか興奮して、この夕べのことを夫に話したように記憶している。この日はいつものように夕食は家でとることになっていた。夫が支度して待っている。私は用事が済んだら、さっさと別れるつもりだった。ところが、夕食にとあたりまえのように移動を始めたとき、断りもせず、のこのことついていったのは、この三人とならもう少し話をしたい、と思ったからだった。

 それほどに気持ちのいい人たちだった。話も面白ければ、人との距離のとり方もさわやかだった。信頼できる人たちだ、と私は思った。「世界にむかって開かれている人たちだからかもしれないね」と夫はその夜私の話を聞いて、言った。

 この日、私はラウンジでの話の折に、すでに吾朗さんの申し出を断っていた。映画づくりに協力を頼めないか、というものだった。訳者として、ここは大事だというところ、ここはカットできないというところを押さえてほしい。

 いや、吾朗さんの話はそういうことではなかったかもしれない。私が勝手にそう受けとっただけだ。本当はあの時、自分が何を求められていたのか、私はいまだによくわかっていない。以前、東京演劇アンサンブルが『影との戦い』を芝居にした時も、何か似たようなことを求められ、この時も私は断ったが、あの時求められたことも、正直言うと、わからないままだ。わからないままだが、あの時断ったのは間違ってはいなかったと思っているし、吾朗さんの要請を断ったのも間違ってはいなかった。妙なことだが、そう私は確信している。

 どちらの場合も私は恐れたのだ。自分がこれ以上の影響を与えることを。訳者として、すでにして私は日本語版の「ゲド戦記」の読者に大きな影響を与えている。意図しなくとも、私の読み、私の解釈を強要している。日本語版「ゲド戦記」は私の朗読、私の演奏になる「ゲド戦記」なのだから。影響は本まででじゅうぶん。そこから先へは一歩もしゃしゃり出てはならない。私はそう思ってきた。本から先、芝居になろうが、映画になろうが、新たな制作者たちにすべてはゆだねよう。そもそも私はそうした分野では全くの素人なのだし。

 それに、数年前の東京演劇アンサンブルの「ゲド戦記」を観て、私は集団の読みのもつ力、そのゆたかさに圧倒されていた。私という個人の読みを集団の読みがらくらくと越えているのを見て、私は自分の読みの程度を思い知らされたのだ。それはうちのめされたとか、敗北したとかいった感覚とはまるでちがう。それぞれが必然をもってそこに在ることに気づかされたような、からっとした、さわやかな感覚だった。そういえば、と芝居を観ながら思ったものだ。ル・グウィンでさえ、自分の作品のゆたかさに気づいていないところがある。作者の意識をはるかにこえて、作品はその地平線をひろげてゆく。
 吾朗さんには訳者の読みなど気にせず、御自身と、氏が信頼する制作仲間の読みを信じて、テハヌーのごとく解き放たれ、アニメーション映画の世界を自由にはばたいていってほしい。

 あの春の宵、ここまで全部語ったか、どうか。とにかく私はこんな思いをぼそぼそと語り、吾朗さんはそれをまっすぐに受けとめてくれたのだと思う。
 だからこそ、そのあとの気持ちのよい食事があり、語らいがあったのだ。その夜店内はいささか騒がしかったにしても。

 
 そして十二月の発表だった。その間、そして今に至るまで、私たちは一度も会ってはいない。それでいい。それがいい。

 ル・グウィンからは五月末だったか、手紙が来て、ジブリの人たちがオレゴン州ポートランドの自宅を訪ねたことを知った。楽しくはずむような文面で、後に読売新聞のロング・インタビューで鈴木プロデューサーがあかした、緊迫した場面のことにはふれていなかった。

 十二月の発表後、いくつかの新聞で宮崎吾朗さんの顔写真を見た時、ああ、やっぱりいい顔をしている、と思った。私はなかなか人の顔が憶えられず、そこここで失礼を重ねているのだけれど、吾朗さんの顔は人混みの中で会ってもすぐにわかるだろうな、と思った。きりりとひきしまった顔。あの澄んだまっすぐなまなざし。ロークの学院の奥まった噴水の庭で、アレンはこんな目をして、大賢人ゲドと向かいあったにちがいない。私はあの春の宵、はじめて吾朗さんに会った時、ふと『さいはての島で』の冒頭の場面を想ったことを思い出した。


 新しい年が明け、年賀状が届き始めた。その多くに「ゲド戦記」の映画化に対するコメントが書き加えられていた。五十代以上の知人友人のほとんどは映画化に眉をひそめ、若い人たちの多くは、楽しみだ、と記していた。慎重な人々は、ル・グウィン自身はどうなのか、と訊いてくる。納得の上のことです、と答えると、固めたこぶしをほどいていく。


 私はそういう人々にも、きっと言う。「見ていてください。きっと初々しく、みずみずしいいい作品ができます。吾朗さんなら、きっとやってのけます」と。


 宮崎駿氏が訳者の私以上に「ゲド戦記」を読み込んでいるのは、雑誌の対談等で、早くから知っていた。「この作品を映像化するとしたら、頼めるのはハヤオだけ」とのル・グウィンの伝言をル・グウィン自身にことづけられて、直にジブリに伝えたのは私だった。駿氏が作ればもちろん「世界のハヤオ」の作品になるだろう。だが、ハヤオは映像化に踏み切れず、息子の吾朗さんが名乗りをあげ、ル・グウィンも結局首を縦にふった。さすがはル・グウィンだと思った。一巻から三巻までの世界をあれだけに構築しながら、四巻以降で壊し、私たちを解放したル・グウィン。
 「ゲド戦記」はたしかに読み手の人生経験の積み重ね、その哲学の深まりと共に、その読みもさまざまに変化をとげていく作品である。ならば、年輩の者たちの読みのみが「ゲド戦記」の真髄に達しうるのか。

 とんでもない。もしもそうなら、世界はとうに、もっとずっと人が人らしく、解き放たれて生きられる場所になっていただろう。


 私は親子ほども年齢のちがう若い宮崎吾朗に期待している。遠慮せず、思うところを存分にやってみるがいい。私だけじゃない。おおぜいの人々が新しい時代の足音がキャッチできるように、アースシーのもうひとつの風をキャッチできるように、五感をひらいてその日を待っていようから。


(翻訳家 しみず・まさこ)

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※本稿は、ジブリが発行している月刊誌『熱風』に、『ゲド戦記』の翻訳者、清水真砂子さんがご寄稿下さったものです。
 
 

もうひとつの風を待つ。─「ゲド戦記」映画化にむけて清水真砂子(しみず・まさこ)
 
 1941年、北朝鮮生まれ。児童文学翻訳家・評論家。
 
 静岡大学卒業。現在、青山学院女子短期大学教授。著書に『子どもの本の現在』『学生が輝くとき』(以上、岩波書店)、『幸福の書き方』『子どもの本のまなざし』(以上、洋泉社)など。訳書に『夜が明けるまで』(ヴォイチェホフスカ著)『めざめれば、魔女』(マーヒー著)『トーク・トーク カニグズバーグ講演集』(以上、岩波書店)など。ル・グウィンの『ゲド戦記』(岩波書店)は全6巻を手がけた。平成16年度の日本翻訳文化賞受賞。