目次
 1章  ある文化輸出の期待と現実
 2章  動く「小説」とテレビ暴力批判
 3章  方法としての「国籍抹消」
 4章 「異物」の排除と「異質」の受容
 5章  玩具の後見と「外科医」たち
 6章 「ジャパネスク」の再発見
 7章  ゲーム・アダルト・美少女戦士
 8章 「ジャパニメーション」から「ポケモン」へ
 9章  繁殖する「ポケモン」の後継者たち
10章 「メディア芸術」の国から

[付録資料]アメリカの和製アニメ年譜
はじめに

 やはり、「千と千尋の神隠し」英語版のアカデミー賞受賞から語り起こさなければならないだろう。
 宮崎駿監督は日本初の長編カラー作品「白蛇伝」(一九五八年)を高校三年のときに見て、ヒロインの美しさに魅了され、ついにはアニメーションづくりの道を歩むことになったと、その執筆・発言の記録『出発点[1979―1996]』にはある。「白蛇伝」を製作した東映動画(現・東映アニメーション)に最後の定期採用で入社したのは六三年だ。
 それからちょうど四十年、「日動(日本動画社)時代から東映動画へと流れてきた一種の伝統のようなものの影響下にある」と自認し、「通俗作品は、軽薄であっても真情あふれていなければならないと思う。入口は低く広くて、誰でも招き入れるが、出口は高く浄化されていなければならない」「ぼくはディズニーの作品がキライだ。入口と出口が同じ低さと広さで並んでいる」と明言したこともある人の作品が、ディズニーに象徴されるアニメーション映画の本拠地で、最も重要な賞を獲得するに至った。
 宮崎監督はまた、「こんなにアニメーションがあるのはおかしいですよ。そのアニメーションがアメリカに行ったからとか、ヨーロッパに売れてるからって、そんなもの民族の誇りでもなんでもないですね。逆に情けないことじゃないかなと僕は思ってるんですけどね」などと、日本のアニメの量産・輸出ぶりに懐疑的な視線を注ぐ人でもあるのだが、私たちにしてみれば、日本のセル画中心の劇場長編が、ハリウッドのCGIを駆使した最新のアニメーション作品を圧して頂点を極めたことに、「誇り」を味わって当然ではあるだろう。
 そして、四十年前といえば、手塚治虫の虫プロダクションによる日本初のテレビ向けアニメシリーズ「鉄腕アトム」が、米国放映を果たしたのも六三年である。国産テレビアニメの初の渡米は十分な成果を得た。放映開始から一年たった六四年九月十二日付の朝日新聞にも、やや遅まきながら「日本のテレビ・マンガが米国で大好評を続けている。このテレビ・マンガは日本でも人気のある『鉄腕アトム』。米国NBC放送が輸入し、同放送のネットワーク下の二十八の放送局を通じて全米のこどもたちに喜ばれている」というAP電が掲載されている。米国放映が予定されている〇三年の新シリーズ「アストロボーイ・鉄腕アトム」は、この往年の人気の再現をあらかじめ見込んでいたに違いない。
 では、「鉄腕アトム」の「大好評」から「千と千尋の神隠し」のアカデミー賞受賞までの四十年、日本のアニメーションはどんなアメリカ体験を重ねてきたのだろう。
 たまたま授賞式直後の三月二十四日に出された文化庁の国際文化交流懇談会の報告は、「多様性に富んだ国境横断的な日本のアニメーションは、ほとんど『メイド・イン・ジャパン』と意識されることもなく、多くの国々で日常的に放送されている。ここにも見られる日本文化の包容力や構成力を積極的に伝えて、多様な文化を受け入れる、包容力のある文化の発信国というイメージを醸成することが望ましいであろう」と特記している。それほどまでなっているのなら、「日本文化の包容力や構成力」を代表するアニメはこの間、きわめて順調に「多くの国々」への影響の度を強めてきたと考えて差し支えはない。米国も例外ではあり得ないことになる。
 ところが、例えばどんな作品が、どのように米国に渡り、どう受け入れられたのか、実はきわめて断片的にしか知られていない。古いところで、虫プロのテレビアニメは「鉄腕アトム」に続いて「ジャングル大帝」も当たりをとったと聞く。「鉄人28号」なども放映されたはず。大友克洋作品の「AKIRA」が人気だったらしい。押井守監督の「攻殻機動隊」も好評だったようだ。宮崎作品と言えば「もののけ姫」も上映された。それより、「ポケットモンスター」がテレビや映画で大ヒットしたのが画期的――といった具合である。思いつく作品の多寡は一応関心の持ち方に比例するのだが、おのずから話題作に限定され、それらをつないでいけば、何となく右肩上がりの直線が浮かび上がる。それで事は足りているわけだ。
 しかし、それほど多いとは言えない傍証から、アニメを「日本文化」輸出のめざましい成功例と考えるのは、文化の「発信」を考える上で必ずしも当を得た見方ではない。むしろ、文化の力を軽視することにもなりかねない。なぜなら、ここでは特定の文化が既存の異文化と接触しなければならないからだ。しかも互いに一元的な組成ではないのだから、どの側面で接触するかによって、以後の展開は変わってくる。接触して適応を果たした、適応はしたけれど原型を維持できなくなった、消滅に任された等々、米国に足を踏み入れたアニメはそのほとんどすべてを体験している。それはアニメに投影された生活習慣、風俗から物語観、美意識にまで至る文化が、仔細に問われた過程でもあるに違いない。
 ということは、送り出された作品とその経緯の詳細を知らなければ、「多様性に富んだ国境横断的な日本のアニメーション」という数少ない輸出可能な文化について、私たち自身がかやの外に置かれたままになってしまいかねない。このあたりで、正確な軌跡を描いておく必要がありそうだ。
 とはいえ、通観して何らかの認識を得るには、第一に、これまで渡米した個々の作品に関する基礎データが不可欠である。が、一九七〇年代までは、労作『日本アニメーション映画史』が追跡しているものの、以後は一部の大手プロダクションに自社作品の記録が残されている程度で、映画であれテレビアニメであれ、日本には輸出や合作をめぐる包括的な編年記録は見当たらない。そこで、ある意味、最も原始的な方法をとることにした。米国で九〇年代半ばまでに劇場公開・テレビ放映された作品を集成した『The encyclopedia of animated cartoons』から、日本のスタジオが製作に関与していそうなものを、ひたすら拾い上げていったのだ。
 ただし、邦題は跡形もとどめていない場合が多いし、わざわざ邦題を注記してくれるほど親切な事典ではない。合作も日本の製作会社名を明記してあるとは限らない。判じ物のような一覧表を作成して、日本のプロダクションに照会したり、インターネットの信頼できそうな情報から原作を特定したりの作業を通して、年譜がなんとか一応の形を成してきた。インターネットなどの情報では米国に渡っているらしい作品でも、事典にないものはあえて外したため、すべてを網羅できているわけではない。
 そして、「言葉」。製作に携わった人であれ、アニメに関する記事であれ、ファンの単なる感想であれ、目にできる範囲の言葉は、くどいほど引用させてもらった。こうした言葉の採集が容易になったのは、確かにインターネットのおかげだ。それらは権威の有無にかかわりなく、アニメとそこに反映する「日本文化」への貴重な発言だと考えている。

この文章は『アメリカで日本のアニメは、どう見られてきたか?』の「はじめに」の文章を転載したものです。
(C)Asahi Shimbun 2003